しあわせになる英語 English for Happiness

日曜更新。人生に役立つバイリンガルの学び。

あなたの内なるブッダとは?「イエスとブッダ いのちに帰る」その6

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われわれ日本人にとってなじみの深い祈りの言葉「南無阿弥陀仏」は、英語で
言うと”I take refuge in Amida-Buddha”つまり「わたしは阿弥陀仏に帰依します」
ということ。さらに広い意味で、東洋で使われている「わたしはブッダに帰依する」
とは、実は、歴史の教科書で学ぶ「お釈迦様」を信仰するという意味を超え、
われわれ一人ひとりの中に存在する「ブッダ(仏性)」に関わる意思表明の言葉
であると、禅僧ティク・ナット・ハンは言います。どういうことでしょうか。

 

If you do well in that practice, some day you will come to the understanding that
the Buddha is not really another person. The Buddha is within us, because
the substance that makes up a Buddha is the energy of mindfulness,
of understanding, and compassion.

練修が進むと、いつかブッダは自分とは別の存在ではないという理解に達し、
自分のなかにいるブッダに気づく日が訪れます。ブッタを構成している内実は、
マインドフルネス、理解、慈悲というエネルギーだからです。

 

If you practice well and listen to the Buddha, you know that you have
the Buddha nature within you. You have the capacity of waking up,
of being understanding, and compassionate. Therefore, we have made progress
and now we are seeking the Buddha from within. The Buddha ceases to be
the other. The Buddha can be touched everywhere and especially within yourself.
練修がもっと深まり、ブッダの声に耳を傾けていくと、自分の内部に仏性が
あることに気づきます。あなたには目覚める力、理解と慈悲の力があるからです。
こうなるとさらに修行が進んで、内側からブッダを求めるようになってきます。
そのとき、ブッダはひとりの人間であることをやめるのです。どこででもブッダ
触れることができ、特に、あなたのうちに宿るブッダに触れることができるように
なるのです。

 

Buddha nature is the capacity of being awake, of being mindful and concentrated
and understanding. And you know very well by yourself that it is a reality that
you can touch within yourself anytime.

仏性とは目覚める能力であり、気づき、集中し、理解する能力です。ブッダとは、
いつでも、自分の力で、自分自身のなかで触れることができる生命の本質、
リアリティであることをあなたは悟ります。

 

Taking refuge in the Buddha in this way will be the practice of generating
the energy of love. You see the suffering in yourself and around you and
you are determined to end the suffering by touching the nature of
understanding, compassion, and enlightenment in you. Because you can touch
the Buddha nature in you, you produce the mind of enlightenment.

ブッダに帰依するとは、慈愛のエネルギーを生みだす練修です。あなたは自分の
なかや周囲の苦しみを見て、みずからのうちにある理解と慈悲と悟りの本質に
触れることによってその苦しみを終わらせようと決意します。自分のなかの仏性に
触れることができれば、悟りの心が生まれてきます。

 

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イエスとブッダ: いのちに帰る

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幸福へのマインドフルネスと5つのチカラ。「イエスとブッダ いのちに帰る」その5

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仏教に由来するマインドフルネスは、ただの休息法、集中力を養うノウハウを
超えて、幸せな人生を送るために欠かせないもの。禅僧ティク・ナット・ハンの
著作から、それは、信じるチカラ(信力=faith)、勤勉のチカラ(精進力=diligence)、
集中するチカラ(定力=concentration)、洞察するチカラ(慧力=insight)などとともに、
「念力=mindfulness」と呼ばれ、幸福を獲得するために必要な5つのチカラ(五力=
the Five Faculties)の中心であることがわかります。

 

Mindfulness has been described as the heart of Buddhist meditation. Mindfulness is
to be there, alive in the present moment, body and mind united. It is the capacity of
being there in order to live deeply every moment of your daily life. You are mindful
when you walk, when you drink your tea, while sitting with your friends, your brother,
and your teacher. You notice that the moments when you are with him or with her
are precious moments.

マインドフルネスは仏教の瞑想行の核心と言われます。マインドフルネスは、
いま・この瞬間に、心と身体をひとつにして、いきいきと存在することです。
毎日の生活の一瞬一瞬を深く生きるために「いま・ここにある能力」といっても
よいでしょう。歩くとき、お茶を味わうとき、友や兄弟や師とともに坐るとき、
あなたはマインドフルになります。彼らとともにいる瞬間がかけがえのない瞬間だ
と気づきます。

 

Mindfulness is to become completely alive and live deeply each moment of your
daily life. Mindfulness helps you to touch the wonders of life for self-nourishment
and healing. It also helps you to embrace and transform your afflictions into joy
and freedom.

マインドフルネスとは、人生の瞬間を深く完全に生きることです。マインドフルネス
は、みずからを養い育て癒しながら、生のふしぎに触れることです。人生の苦悩を
抱きしめ、喜びと自由に変容する手だすけをしてくれるものです。

 

When you drink coffee, when you hold the hand of your child and walk, when you
are really there, fully present and concentrated, you enjoy it more. You understand
more of what is going on. That is mindfulness. That is concentration. That kind of mindfulness, concentration, and insight improves your happiness, your peace.

コーヒーを飲むとき、子どもの手をとって歩くとき、あなたがいま・ここに集中して、ほんとうにそこにいるとき、ひとつひとつの行為をもっと楽しむことができるようになり、いま起こっていることをもっと理解できるようになります。これがマインドフルネスです。これが集中です。そのマインドフルネスや集中、洞察こそが、あなたの幸福や平和を増進します。

 

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イエスとブッダ: いのちに帰る

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真の信仰と盲目の信仰の違いとは? 「イエスとブッダ いのちに帰る」その4

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「信仰」と聞いて、すぐに既成の宗教への入信を想像し、拒否反応を示す人も
多いと思いますが、マインドフルネスの伝道師ティク・ナット・ハンの説く
「信仰」は、必ずしも、宗教の道に入ることを意味しません。彼の言葉に耳を
傾けてみましょう。

 

True faith comes from how the path you are taking can bring you life and love
and happiness everyday. You continue to learn so that your happiness and
your peace, and the happiness and peace of the people around you, can grow.
You don’t have to follow a religious path in order to have faith. But if you are
committed only to a set of ideas and dogmas that may be called faith, that is
not true faith. We have to distinguish. That is not true faith, but it gives you energy.
That energy is still blind and can lead to suffering; it can cause suffering for other
people around you. Having the kind of energy that can keep you lucid, loving,
and tolerant is very different from having energy that is blind. You can make
a lot of mistakes out of that kind of energy. We have to distinguish between true
and blind faith. That is a problem in every tradition.

ほんとうの信仰は、あなたのいきいきとした愛と幸福の生活から生まれるものです。
学びつづけることによって、あなたやまわりの人々の幸福や平和が育ちます。信仰を
持つのに、宗教の道に入る必要はありません。信仰という名の観念やドグマに関わる
だけなら、それは真の信仰とはなりません。これを混同しないようにしてください。
真の信仰ではないのに、力だけが与えられることがあるからです。その力は盲目で
人を苦しみに向かわせて、まわりの人々の苦しみを引き起こします。明快で愛に満ち
忍耐強いエネルギーをもつことと、未熟で盲目的なエネルギーをもつことは別もの
です。そのようなエルルギーからは、大きなあやまちが生まれます。真の信仰と
盲目の信仰を区別しなければなりません。これがどの宗教でも陥りがちな問題です。
 

ちょっと長い引用になりましたが、例えば、オウム真理教の問題などを思い起こして
みれば、ティク・ナット・ハンの言う「盲目の信仰」の意味するところがわかると
思います。逆説的な言い方かもしれませんが、人間よりも何か大きな存在を信じる
「信仰」と、自分と「宗教」の関わり方は、一度分けて考えたほうが良いのかも
知れません。ただ、人は何かを信じなければ生きていけない生き物であることも、
また事実。最後に、かなり厳しい意見になるかもしれませんが、ティク・ナット・
ハンの以下の言葉を引用したいと思います。

 

People who do not believe in anything are those who suffer the most. They don’t
see anything beautiful, or true, or good. They are in complete confusion. That is
the utmost kind of suffering. They might suffer more deeply than any others we
might encounter. When you don’t believe in anything, you become sort of
wandering soul; you don’t know where to go or what to do. You don’t see any meaning
in being alive. Because of that, you may try to destroy yourself physically and mentally.
And there are so many ways of self-destruction available today.

何も信じられない人は、もっとも苦しむ人です。美しいものも、真実のものも、
善きものも、何も見えなくなり、完全に混乱して、極限の苦しみを味わいます。
彼らの苦しみは、私たちが出会うどんな人よりも、さらに深いものであるかも
しれません。何も信じない人は、さまよえる魂のような存在です。どこへ行くべきか、
何をすべきかを知らず、生きている意味も見いだせません。肉体的にも精神的にも
自己破滅に向かいます。そして今日ほど、自己破滅への道が用意された時代はないの
です。

 

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イエスとブッダ: いのちに帰る

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自分を見失わないためのマインドフルネス。「イエスとブッダ いのちに帰る」その3

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今、世界中の人々が注目し実践しているマインドフルネスは、もともと仏教の教え。
こころを静めて、いま・ここに戻り、あらゆることを深く見つめ、深く触れる手助け
をしてくれるエネルギーです。マインドフルネスによって、私たちは、迷った時に
帰るべき場所、すなわち「わが家」は自分自身だと気づかされる、と禅僧ティク・
ナット・ハンは言っています。

 

Every time you feel lost, alienated, cut off from life, or from the world, every time
you feel despair, anger, or instability, you have to know how to practice going home.
Mindful breathing is the vehicle that you use to go back to your true home.

喪失感や疎外感を感じたとき、人生や世界から切り離されたと感じたとき、絶望や
怒りを感じたときはいつでも、わが家に戻る練修をしてください。マインドフルな
呼吸は、あなたが自分のほんとうの家に戻るための乗りものになります。

 

Live your daily life in a way that you never lose yourself. When you are carried away
with your worries, fears, cravings, anger, and despair, you run away from yourself
and you lose yourself. The practice is always to go back to oneself. You have a
wonderful vehicle. And you don’t have to buy any gasoline. Mindful breathing and
mindful walking are wonderful ways to go back to oneself.

毎日けっして自分を見失わないようにすごしてください。心配ごと、怖れ、渇望、
怒り、絶望に心を奪われたら、自分から逃げだして、自分を見失います。いつも
自分自身に戻る練修をしてください。あなたは素晴らしい乗りものに乗っています。
ガソリンを買う必要がないのですから。マインドフルな呼吸、マインドフルな歩きは、
自分に戻る素晴らしい方法です。

 

Why do you have to run to find your home? Your home is here, your home is now.
Recognize it. Everything, everyone is part of your true home. You have a lot of space.
You are not isolated.

自分の家を見つけるのに、どうして走りまわらなければならないのでしょうか。
あなたの家はここにあります。あなたの家はいま・この瞬間です。気づいてみて
ください。ものも人もすべて、あなたの愛しいわが家の一部です。あなたのなかに
広い空間があります。孤立などしていません。

 

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イエスとブッダ: いのちに帰る

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あなたの敵を愛する方法。理解から愛へ。「イエスとブッダ いのちに帰る」その2

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聖書の有名な言葉「あなたの敵を愛しなさい」に関して、マインドフルネスの
伝道師ティク・ナット・ハンが、仏教徒としての深い見解を述べています。

 

Why do you have to love your enemy? How can you love your enemy?
In the Buddhist teaching, this is very clear. Buddhism teaches that understanding is
the ground of love. When you are mindful, you realize that the other person suffers.
You see her suffering and suddenly you don’t want her to suffer any more. You know
that there are things you can refrain from doing to make her stop suffering, and
there are things you can do to bring her relief.

どうして敵を愛さなければならないのでしょうか。どうしたら敵が愛せるの
でしょうか。仏教の答えは、はっきりしています。仏教では、愛の基盤は理解です。
あなたがマインドフルになったら、他の人の苦しみが見えてきます。苦しみが
見えると、突然、その人の苦しみを減らしてあげたくなるのです。苦しみから
その人を救ってあげるためにしてはいけないことと、その人を安心させるために
あなたにできることがわかるのです。

 

When you begin to see the suffering in the other person, compassion is born, and
you no longer consider that person as your enemy. You can love your enemy.
The moment you realize that your so-called enemy suffers and you want him
to stop suffering, he ceases to be your enemy.

人の苦しみが見えはじめると、慈悲の心が生まれて、その人を敵と思わなく
なります。敵を愛することができるのです。あなたが敵と思っている人が
苦しんでいて、その苦しみをとめてあげたいと思った瞬間に、その人は敵では
なくなるのです。

 

When you hate someone, we are anger at him because we do not understand
him or his environment. By practicing deep looking, we realize that if we grew up
like him in his set of circumstances and having lived in his environment, we would be
just like him. That kind of understanding removes your anger, removes your
discrimination, and suddenly that person is no longer your enemy. Then
you can love him.

誰かを憎むとき、その人のおかれた状況が理解できないから、腹を立てるのです。
深く見つめる練修をすると、もし自分がその人と同じような境遇で育てられ、
同じような環境で生活してきたら、自分も同じことになるとわかります。この理解に
よってあなたの怒りが去り、偏見も消えていきます。そのとき突然、その人は
あなたの敵ではなくなります。その人を慈しむ気持ちが生まれてきます。

 

One of the things I have learned from the teaching of the Buddha is that
without understanding, love is not possible. If a husband and wife do not
understand each other, they cannot love each other. If a father and son
do not understand each other, they will make each other suffer. So understanding
is the key that unlocks the door to love.

私がブッダから学んだ大切なことは、理解なしに愛はないという教えです。
夫と妻がおたがいに理解しあわなければ、たがいに愛しあうことはできない。
父と息子がたがいに理解しあわなければ、苦しめあうばかりです。理解は
愛の扉をひらく鍵なのです。

 

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イエスとブッダ: いのちに帰る

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神は人格か?ひとつの明確な答え。「イエスとブッダ いのちに帰る」その1

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「神は人格か(Is God a person)?」延々と論議されてきたこの問いに、
マインドフルネスの伝道師ティク・ナット・ハンが、仏教徒として答えています。
そもそも、神の存在、あるいは仏教で問題となる「涅槃(ニルヴァーナnirvana)」を
語るのに、一般の現象を語る言葉を使うことが問題だと言うのです。

 

The first principle we have to remember is that we should not mix up the
phenomenal level with the noumenal level. We should not discuss nirvana or
God in terms of phenomena. That would help save our time and energy.
In discussing whether God is a person or not a person, you are trying to compare
the ground of being with one expression at the phenomenal level. You are making
a mistake.

現象のレベルと本体のレベルを混同してはいけません。これが忘れてはいけない
根本です。時間やエネルギーを無駄に使わないためには、現象を語る言葉で涅槃や
神を語らないことです。神は人格的存在か非人格的存在かという議論をするとき、
あなたは存在の基盤を現象世界の言葉で比較しようとしているのです。ここに誤謬が
生じます。

 

ここで言う「本体(noumenon)」とは、かなり難しい言葉なのですが、哲学用語で
「本体、物自体、不可知なもの」という、乱暴に言えば、一般の現象世界を語る
言葉では描写できない存在のこと。ティク・ナット・ハンは、さらに続けます。

 

In Christianity, a lot of time and energy has been used to discuss whether or not
God is a person. But in Buddhism that is not a big problem, because we know that
a person is made of non-person elements and vice versa.

キリスト教は、時間とエネルギーを費やして、神は人格かどうかを議論してきました。
しかし仏教では問題になりません。人格は人格でない要素からできており、逆もまた
真だと知っているからです。

 

When you look at a person you can see the non-person elements like animals and
plants. When you look at a person you can already see the Buddha. You don’t need
the Buddha to manifest through your perception to recognize it as existing. Because
you can already see the lemon in the lemon blossom.

人を見たら、その人のなかに動物や植物のような人でない要素が見えます。人を
見たら、その人のなかにブッダが見えるのです。あなたのなかにブッダが存在して
いることを知るのに、わざわざ知覚を使ってブッダを呼びだす必要などありません。
レモンの花を見れば、すでにレモン(の果実)が見えているからです。

 

いかがでしたか? すべてのものに神が宿るという考え方を受け入れている日本人
なら、かなりわかりやすい説明だったのではないでしょうか。今回からご紹介して
ゆく、「イエスとブッダ いのちに帰る」は、この第1章の内容が難しいのですが、
そこを過ぎれば、いつものわかりやすい語り口で引きつけられます。どうぞ、
お楽しみに!

 

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イエスとブッダ: いのちに帰る

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仏教とキリスト教。たがいに豊かにできる可能性とは?「ダライ・ラマ、イエスを語る」その4。

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そもそも人は、それぞれが育てられ、信じている宗教を大切にすべきで、仏教徒
仏教の道を究め、キリスト教徒はキリスト教の信仰を深めていけば良い、というのが
ダライ・ラマの基本的な考え方です。その上で、無用な摩擦を避け、より良い世界を
築いていくために、互いに知っておいたほうが良いことが、いくつかあると言うの
です。ダライ・ラマは、語ります。   

 

For example, for some people, the Christian traditions, which are based on belief
in a Creator, have the most powerful effect on their ethical life and serve to motivate
them to act in an ethical and sound way. However, this might not be the case for
every person. For others, the Buddhist tradition, which does not emphasize belief
in a Creator, may be more effective. In the Buddhist tradition, there is an emphasis
on a sense of personal responsibility rather than on a transcendent being.

たとえば、創造主への信仰を基にしたキリスト教こそが、道徳的に正しい生涯を送る
上で一番効果があり、正しく健全な行動をするための動機づけをあたえてくれる、と
主張する人々がいます。しかし、だれでもそうだというわけではありません。創造主
を強調しない仏教の方が、効果がある人もいます。仏教では、超越的存在よりも個人
の責任という感覚により重きをおいていますからね。

 

It is also crucial to recognize that both spiritual traditions share the common goal
of producing a human being who is fully realized, spiritually mature, good, and
warm-hearted person. Once we have recognized these two points-commonality of
the goal and the clear recognition of the diversity of human dispositions-then I feel
there is a very strong foundation for dialogue. It is with these convictions, these two
principal premises, that I always enter into dialogue with other traditions.

それに、仏教キリスト教も、完全に目覚めた、霊的に成熟した、温かい心を
持った、善い人をつくるという目的は同じだ、と認識することも大切です。目的は
同じだという認識と、人間の心の傾向はじつに多様だというはっきりした認識、
この二つの認識を持つことが、対話への基礎となると思います。私はいつでも、
この二つの前提を胸に、他の宗教との対話に参加します。

 

To sum up all that we’ve discussed, I feel there is tremendous convergence and
a potential for mutual enrichment through dialogue between the Buddhist and
Christian traditions, especially in the areas of ethics and spiritual practice, such as
the practices of compassion, love, meditation, and the enhancement of tolerance.
And I feel that this dialogue could go very far and reach a deep level of understanding.
要約すると、慈悲や愛や瞑想や寛容の修行のような、倫理的・霊的な修行の分野では
とくに、仏教キリスト教の対話はうまく話がかみあって、おたがいを豊かにできる
可能性があると、私は思っています。

 

 

The Good Heart: His Holiness the Dalai Lama

The Good Heart: His Holiness the Dalai Lama

 

 

 

ダライ・ラマ、イエスを語る (角川21世紀叢書)

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